新影タイ捨流(居合)
流祖 丸目蔵人佐長恵によって創始された兵法「新影タイ捨流」

時代が人を作るといわれる。日本にとって激しい時のうねりを受けていた時代。丸目蔵人より四歳年長の織田信長・二歳年下の徳川家康など、時の人々が名を連ねる。
丸目蔵人の師であった新陰流の祖 上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみ)によって、その才能を開花。上泉伊勢守門下四天王[丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどながよし)・穴沢浄賢(あなざわじょうけん)・疋田文五郎(ひったぶんごろう)・柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)]として新陰流一門の筆頭に位置し、将軍 足利義輝公(鹿島新当流皆伝)への上泉伊勢守新陰流の御前演武の際に師の打ち太刀をつとめた。その見事さに義輝公は御感状を下され、下記の一書をしたためたとされている。
「上泉兵法、古今比類無し。天下一。並びに丸目打ち太刀、これまた天下の重宝たるべきものなり。」
六月十八日 義輝(花押) 丸目殿へ
流名「タイ捨」の由来
「タイ捨」とは、漢字で置き換えた場合、大・太・体・待などの偏った意味にとらわれてしまうおそれがあります。広義の意味を含む言葉本来の言霊として、これらを捨てた「自在の境地」を表した名が「タイ捨」なのです。
これは師上泉伊勢守直伝新陰流の旨とする「懸待表裏(けんたいひょうり)、一隅を守らず」にある通り、人は時として争いの中で一撃を持って懸かることのみに囚われ易く、またはある人は相手の働きを待って仕掛ける待の技に固執し易いため、心の自在さを失ってはならないと心法極意が述べられているわけです。
新影タイ捨流はこの「懸待表裏」を学び、ついにはそれを捨て去った「捨」を極意とします。この「自在の境地」を流祖丸目蔵人佐は「タイ捨」と開眼されたのです。
流祖は剣術をはじめ、長刀(なぎなた)、槍、馬、手裏剣等の二十一流に通じた人であると同時に、文化人としての素養の高さも兼ね備えていました。現存する自筆伝書(青蓮院流書道免許)に記述される技名。流儀にたずさわる者には、一見しただけで「技の心」に参入できるほどの意味が文字にこめられています。時代を超えた不変的な武道のあり方が伝わってくることに、素直に心を動かされます。


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